No:9種別:史跡指定の有無:06/27/90指定

文化財の名称: 南風原陸軍病院壕(第1外科壕群・第2外科壕群)


説 明:
南風原陸軍病院壕は、戦争の悲惨さを教える生き証人である。南風原町は、県内でいち早く「非核宣言」をした町であり、宣言文に「『ひめゆり部隊』の悲劇に象徴される第2次世界大戦の惨禍を体験している南風原町であるだけに『ふたたびあやまちを繰り返させない』の決意をこめ、平和ですみよい調和のとれた田園都市を目指し」とうたっている。
南風原陸軍病院壕は、第32軍直属(部隊名 球18803)の病院壕で、正式には沖縄陸軍病院の壕である。しかhし、南風原にあった関係上、病院に南風原の名前を冠して南風原陸軍病院壕と呼ばれている。
陸軍病院は、「十j・十空襲」後、那覇から南風原国民学校に移り、学校は病棟と化した。そして黄金森を中心に横穴壕の構築が始まった。昭和20年の3月末、学校は焼け病院は壕に移動。以後、南部撤退するまでの2カ月間、黄金森は地獄の丘となった。
病院は、軍医・看護婦など450名、それに「ひめゆり学徒隊」約200名の医療体制だった。患者は、壕の数や規模から想定して2000余名、延べにして1万名に達したと思われる。
壕は手掘りの横穴壕で、クチャ土のため坑木がはめられ、通路と二段ベッドがあった。ベッドには重傷患者が寝かされ、壕内は血・膿み・ウジの臭いと、唸り・叫び声が充満した阿鼻叫喚の世界。
通路では「ひめゆり学徒隊」が不眠不休でオニギリの配給・糞尿の始末・治療・死体運び…。そこには人間が人間でなくなる、沖縄戦の現実があった。
「南風原陸軍病院壕趾」(昭和28年に南風原村が建立)には「重傷患者二千余名自決の地」と刻まれている。また「悲風の丘」と命名された碑も建っている。


所在地:字喜屋武宇地真原・毛原・大門原(町有地)保持団体:南風原町連絡先:889-7399

備考